

歴史の街・播磨
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姫路藩・河合寸翁と仁寿山校

仁寿山
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文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。
写真は南側のお旅山山頂から見た仁寿山です。写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。頂上の六一亭があったところにはテレビ塔が建っています。六一亭は六つの藩がここから一つに見えることから名付けられたと云われています。

仁寿山と西池:右側に水楼とその奥に仁寿山校がありました。
仁寿山校
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仁寿山校略絵図
仁寿山校跡地 竹林と土塀
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仁寿山校井戸跡
河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで名高い。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けた。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしたが、寸翁の死後廃校となった。天保十三年(1842)寄宿舎は姫路城下にあった藩校・好古堂に移され、医学寮だけは明治維新までこの地に残された。図は、元藩士の下田重復が明治四三年に描いたもので、盛時のようすを示している。現在、井戸と土塀の一部だけが残っている。寸翁の墓は仁寿山々麓の河合墓所の中にある。
平成二十四年一月 姫路市教育委員会、姫路市文化財保護協会現地掲示板より記載(同じく左上写真掲載)
仁壽山校址碑

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仁壽山校址碑 伯爵 酒井忠正撰
舊姫路藩大夫河合寸翁余が千世忠道忠実二君ノ信任ヲ受ケ藩政釐革ノ衝ニ膺リ功績甚ダ多シ君之ヲ褒め
シ文政二年禄を増シ且ツ特ニ城ノ東南阿保阪元奥山北原兼田諸村ノ山林ヲ賜ヒテ燕息ノ處ト為サシム仁
壽山是ナリ寸翁以為ヘラク教化ヲ興し人材ヲ得ルハ今日ノ急務トス此ヲ以テ恩ニ報ユベキナリト乃チ私
財ヲ捐テ山南ノ一區ヲトシテ校舎ヲ創設ス書院塾舎書庫教場教師館醫學寮等ノ諸堂宇六一亭六角堂白鹿
洞規碑等アリ又朱子祠堂公館等ノ地ヲ豫定セリ其學制ハ大學頭林述齋ノ指導ヲ仰ギ近藤抑齊菅野松塢ヲ
舉ゲテ督學トナシ汎ク藩内外ノ子弟ヲ収容ス猪飼敬所頼山陽摩島松南等ノ碩儒来リ講ジ育英ノ業日ニ進
ム仁壽山校ノ名四方ニ聞エテ藩學好古堂ト相駢馳セリ天保十二年寸翁逝キテ後校運漸ク衰ヘ藏書什器ノ
類率子好古堂ニ移管セラレ山校遂に廢ス今ヤ當年ノ校舎泉石皆湮滅シテ復覩ル可カラズ獨市川ノ清流瑩
然トシテ山麓ヲ繞リ白鷺ノ城樓分明ニ雲際ニ聳ユルアルノミ今茲舊藩士民ノ有志相諜リ寸翁頌徳ノ碑ヲ
姫山公園ニ建テ又此碑ヲ山校ノ遺址ニ置テ以テ其勲業ヲ不朽ニ傳フト云フ
大正十一年六月二十四日建
仁寿山校の教育内容
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■「賢人は国家の宝」
・河合寸翁の人材を愛する心が学校の設立を実現させた。
・藩の補助を受けたが私学校であった。姫路藩は藩立として好古堂が存在した。
・文政五年開校(1822)。 初め仁寿山書院と称した。
■校風と授業について
・校舎内に朱子の白鹿洞書院掲示碑を建立した。(学問の心構え。1825)
頼山陽は文政八年(1825)の秋に、この朱子の「白鹿洞掲示」を学生に講義を行った。
・実学を重んじ、「治国平定天下経世済民の人材を養成する」※1ことを主目的とした。
・学問に志がある子弟、藩選抜の子弟、及び他藩の志がある者を受け入れた。
・「経書を講説」※2
(五経:易経、詩経、書経、春秋、礼記/四書:大学、中庸、論語、孟子など)
・「学科は漢学、国学、習字、習礼などで、素読、復読、討論、質問辨義などを行った。」
※3 習礼(しゅうらい:重要な儀式の予行) 復読(繰り返して読む)質問辨義(質問し正しく弁ずる)
・太極図・論性説を発行。(1832)
・仁寿山に招聘された人々
頼山陽(4回):学問のあり方など様々な問題を討論させた。
堤鴻佐、猪飼敬所、摩島松南、斎藤拙堂、大国隆正、松林飯山など
・河合寸翁没(七十五才 1841)
・「1842年 仁寿山を廃止し、寄宿舎を好古堂に移す。医学寮は残る。」※4
◆頼山陽の詩
『発播仁寿山校諸生』『姫路懐古』『重陽在仁寿山校』など
◆頼山陽、藩主酒井忠実に『日本外史』を献上
※参考書籍
『姫路城史(下巻)』 橋本政次 著 ㈱名著出版 1973年4月
※1、※2、※3は『姫路城史(下巻)』より引用
『近世の松原村』松原郷土史シリーズ3 大西文雄 著 1998年3月
※4は『近世の松原村』より引用。
『頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育』 島田清 著 兵庫教育研修所 1969年3月
姫路神社内 河合寸翁像
仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示碑
学問の要諦が書かれており、頼山陽が仁寿山校で教授しました
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出典 『河合寸翁大夫年譜
「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」
仁寿山校跡の白鹿洞掲示碑の礎石
この碑に書かれているのは、学問を志す者が、肝に銘じておかなければいけない「学問の重要点」が書かれています。儒教は「修己治人」の学問であり、その学問をどのように学んだらよいか、わかりやすく示されています。朱子は規則を好まず、自己を律することを尊重しており掲示としたようです。碑の主要なところを抜粋しました。
「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり※2。
博く学び、審かに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う※3。
言は忠信であること、行いは篤敬であること※4。忿りを懲らし慾を窒ぐこと※5、善に遷って過ちを改めること※6。
右は身を修むるの要なり。
その義を正してその利を謀らず。その道を明らかにしてその功を計らないこと※7。
右が事柄に対処する要である。
自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならい。※8。実行してうまくゆかぬときは、わが身に振り返って反省すること※9。
右が人と応対する要である。」
※1 朱子が制定した学生心得。朱子は外から規制する学規を嫌い、掲示としました。
朱子が白鹿洞掲示碑にピックアップした出典書物
※2 『孟子』、※3『中庸』、※4『論語』、※5『易経』損卦、※6『易経』益卦、※7『漢書』、※8『論語』、※9『孟子』
出典:三浦国雄 著『人類の知的遺産 19 朱子』講談社 1979年
抜粋引用:325頁~327頁 ニ 白鹿洞書院掲示
朱子は四書五経や漢書から重要な点をピックアップして説いています。
朱子は当時、多くの人がそうであった功利主義の人が目指す科挙(国の試験制度)を嫌いました。「民と共にある」人間をつくる学問を目指しました。河合寸翁や仁寿山校で講義を行った頼山陽もそのような志の人間を養成したかったと思います。
河合寸翁も財政改革を成し遂げたあと、半官半民の学校による人づくりを目指しました。
※岡山県にある興譲館高等学校はこの「白鹿洞書院掲示」が建学の精神となっています。
YouTubeに興譲館高等学校の動画が載っております。
仁寿山校に招聘され、真の学問を教授した
頼山陽
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竹原の頼山陽像
頼山陽(安永九年~天保三年/1780~1832)は大阪生まれの「安芸の人」で江戸時代後期の儒学者、漢詩人、歴史家、画家、書家の人と言われ、旅や酒も女性も好きな自由人でした。あの有名な『日本外史』を執筆した方です。『日本外史』は史記を参考に、源平から徳川までの武家の栄枯盛衰の歴史を綴ったもので、天皇と武家の関係を執筆し、幕末尊王思想に影響を与えた書物です。
頼山陽は仁寿山校を訪れ学問のあり方や方法、教育や人生の意義・目的など色々な問題を討論させとた言われています。頼山陽先生のこともこれから書いていきたいと思っています。昔の学者や文化人を通して生き方や日本を知っていけたらと思っています。
※昔、頼山陽先生の旅に広島に行っていました。頼山陽先生のふるさと、小京都といわれる竹原に先生の像があります。
頼山陽先生は、銘酒・剣菱を飲みながら幕府の恐れに屈することなく、酒標の霊気と酒魂によって『日本外史』を執筆されたそうです。昔買った箱入り「黒松剣菱」の中に冊子が入っており、その中に頼山陽先生が剣菱を飲みながら執筆されている絵が描かれています。また、赤穂浪士の討ち入り出陣の際にも剣菱が飲まれたそうです。その絵も描かれています。
※剣菱は不動明王の剣と鍔が商標となっています。古来武家の慶祝の祝酒に用い
られていたそうです。私も好きな一つのお酒です。

黒松剣菱の箱に入っている
冊子の中の頼山陽の絵

頼山陽愛飲の酒
広島の頼山陽史跡資料館にて展示
仁寿山校で『太極図』を出版

天保三年(1832年)九月に出版
出典:兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況島田清 著
天保三年九月(1832年)、仁寿山校で『太極図』を出版。
『太極図』は宋学における宇宙と人間の根本原理を説くもので、周敦頤がつくり出し、朱子が重要な新解釈を行いました。宋学の入門書『近思録』(1176年刊行)の「道体」に太極図説の説明があります。近思録とは「論語」の「切に問いて近く思う、仁その中にあり」から取ったもので「身近なことから考えてゆく」という意味です。朱子は宇宙論・形而上学を補い、宋学(新儒教)のリーダー的役目をにないました。
廬山世界文化遺産 白鹿洞書院(江西省・九江市)
「アジアあっちこっち!その日暮らし!」さんのブログに白鹿洞書院の紹介記事が掲載されています。紹介致します。 ⇒ 「アジアあっちこっち!その日暮らし!」
※「アジアあっちこっち!その日暮らし!」さんの許可を得て掲載しています。
◆残念ながらプロバイダーの都合によりブログ中止の為、閲覧できませんので、下記の様に掲載しました。(2020.1.6)

仁寿山校の白鹿洞掲示碑は長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に生まれ変わっていました
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地蔵院にある長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑

亀山雲平先生の漢詩

長谷川君父子瘞髪之碑とお地蔵様
※写真は地蔵院様の許可を得て撮影し、掲載しています。無断転載は禁止します。
その碑は今、姫路市京町の地蔵院の境内にお地蔵様と南天の木に守られて「長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑」となって、建立されています。この碑は、亀山雲平先生の教え子であった長谷川君父子の瘞髪鎮魂の碑です。
※瘞髪(遺髪を埋める)
幕末・明治初頭は遊学と留学が盛んに行われました。父である長谷川鍛冶馬は藩の命により武術習得の為に福岡に遊学に、時を経ての娘婿の長谷川雉郎は明治政府の命により米国ニューヨーク州トロイに留学に行きました。しかし、長谷川君父子は遊学先、留学先で志半ば病に倒れて客死しました。亀山雲平先生はこの教え子の不幸を嘆かれ、親戚の依頼を受けてこの鎮魂の漢文をつくり父子の遺髪を埋めて碑を建立されました。藩と国の為に志を高くもって他国で亡くなった二人。遺髪を合葬すれば二人の魂はひとつのところに帰ってきて出会うだろうと、この碑がつくられたそうです。
詳しいことはホームページ「日本漢文の世界・長谷川君父子瘞髪之碑」の記事をお読みください。
ホームページ ➡ 日本漢文の世界
※掲載とリンクは「日本漢文の世界」の管理人様の許可を頂いています。
私はこのホームページを見て、この歴史的事実を知りました。いろいろと調べていきますと明治期初頭の留学生は痛々しいほどに国のため、プレッシャーや病と闘いながら苦学をされていたということを知りました。本当に胸が詰まる思いがします。
今、長谷川雉郎の墓はニュージャージー州ニューブランズウィックの日本人留学生の墓地に眠っています。その写真をブログに載せておられる方がいます。見てください。ニューブランズウィック市は山形県鶴岡市と福井市と姉妹都市となっています。
※ホームページ「Rutgars 日下部太郎の墓を訪ねてより」は(管理人不明、現在インターネットプロバイ

※ホームページより抜粋
ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。
一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。
ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと
入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳
小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳
松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳
長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳
日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳
仁寿山校の朱子の白鹿洞掲示之碑と長谷川君父子瘞髪之碑は碑文が変わっていますが、学問の要諦、つまり、「修己治人」の教えを学び実践した志の魂の碑として変わっていないのではないでしょうか。私はそのように思っています。仁寿山校の学生もそのような志を持った人が多く集まりました。
碑の上部には前の碑と変わらず、双龍が守っています。その双龍の上部中央に宝珠がありますが、現在の碑となって、宝珠が魂に描かれているように思えるのですが、そのように見えるのは私だけでしょうか。 (※宝珠:災難を除き、濁水を清め、望みを叶えると言われています)
碑の前に南天の木が植えられています。今、赤い南天の実をつけています。南天は発音から「難転」つまり禍を転じると云われ、幸せをもたらす木として昔からも用いられてきました。英語では「heavenly bamboo」と言います。実は咳の鎮静の薬とされてきました。南天の赤い実が長谷川君父子の魂を守っているようにも見えました。ご冥福をお祈り致します。
仁寿山校と楠木正成
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湊川公園「楠木正成像」
仁寿山校の図書庫には多くの貴重な書物があったそうです。
河合屏山の所蔵品であった『紙本墨書 法華経奥書』もそのひとつです。楠木正成の信念、思想が明確にわかる資料であり、河合寸翁の養子で姫路藩の勤王運動のリーダーであった河合屏山の『心』も読み取ることができる貴重な資料です。
この資料は、今どこにあると思いますか? 探しました! 湊川神社の宝物殿にありました。
『紙本墨書 法華経奥書』 南北朝時代 建武二年(1335年)八月二十五日 楠木正成が奉献した法華経の奥書である。かつて楠木正成は天下平定を行うことができたならば、社前で毎日法華経を転読するとの誓いをたてていたが、その祈願が成熟したため、社前に経文と由来を書き記して奉献したものです。
河合寸翁大夫頌徳碑『葆光』
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姫路神社の前に河合寸翁大夫頌徳碑『葆光』があります。
この碑は河合寸翁頌徳碑で大正十一年六月二十三日(碑の日付は二十四日建)に除幕式が盛大に行われたそうです。
この碑は伯爵酒井忠正が撰者で題字は久邇宮邦彦王殿下が書かれたものです。
この『葆光』は荘子の斉物論に書かれている言葉で、光を包み隠し、表面に表さないこと、つまり、知恵や才能を内に深くたくわえて、おもてにあらわさないことです。河合寸翁の偉大にして測り難い徳業を褒めたたえる語として題額となっています。厳しい環境と孤独な幼少期と青年期を学問に励み、壮年期は筆頭家老として藩政改革に取り組み、晩年は、人材は国の宝として仁寿山校を建立して人材育成に捧げた河合寸翁は姫路の賢人(公の賢人)であり大恩人です。将来、姫路に河合寸翁記念館ができればと願っています。
※ 頌徳碑:功徳を褒めたたえる碑
※ 斉物論:万物斉同(万物は全て斉(等)しい)。荘子の哲学の根本。
※ 『葆光』は兵庫県立姫路工業高等学校のOB会の名・「葆光会」となっています。
『葆光』の意は前述していますが、逆説すれば身につけた教養はおのずから光を発するという意
味です。兵庫県立工業高等学校・葆光会資料より

河合寸翁と播磨の社倉・固寧倉(こねいそう)
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