

歴史の街・播磨
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姫路藩・河合寸翁と仁寿山校
インデックス
仁寿山
郷土の賢人と郷学(きょうがく)
私の住んでいる姫路市に仁寿山と呼ばれる山があります。その山の麓に昔、江戸時代末期に仁寿山校と呼ばれる姫路藩家老・河合寸翁が設立した人材養成の学校がありました。その仁寿山校跡の敷地に碑の礎石が残っています。私はこの礎石との出会いによって 江戸時代、中世、そして中国の周・漢・宋・明時代の思想や教育等を探究することになりました。河合寸翁と仁寿山校から播磨の歴史、日本の歴史、そして中国古代の歴史などを探究し、人間学を学んでいきたいと考えています。
安岡正篤先生は終戦後の混乱期、日本人の心を取り戻すべく「郷学」を唱えられました。郷土の賢人を顕彰し、郷土の学問・業績を郷土の人に回復させようと提唱されました。その学問、その思想から「自己を知り、自己をつくる」そして自分の環境を及ぼしていくことが使命であると、そして、「郷学を過去の遺物とせず、新しい時代を生きる活力の源泉としなければならない」と唱えられました。現代もその様な時代ではないでしょうか。

安岡正篤 著 『人間学のすすめ』
福村出版 1987年4月
目次
郷学というもの
郷学と現代
荻生徂徠と庄内学
人間の師
細井平洲とその師友
自己をつくる
大塩平八郎の学問的態度
自分を知る
中江藤樹・熊沢蕃山の学
達人の生き方
熊沢蕃山の遺風
不為(なさざる)の精神
森田節斎をめぐって
調和・永続の精神
紀ノ国のこころ
徒(いたずら)に生きない信念
真木和泉の思想
安岡正篤先生のご紹介

安岡正篤 先生(1971年当時の写真)
出典ウキペディア
安岡正篤先生(1898-1983)は日本の偉大な易学者、陽明学者、哲学者、思想家、教育者であり、素晴らしい人間力のある偉人です。大阪市生まれで東京帝国大学法学部政治学科を卒業されています。その後、金鶏学院、日本農士学校を設立され、東洋思想の研究と後進の育成に務められました。戦後、師友会を設立され財政界のリーダーの啓発・教化に務められ精神的支柱になりました。昭和天皇が玉音放送で発せられた終戦の詔勅(しょうちょく〔みことのり〕)の草案作成に関わられ、また平成の元号の考案者でもありました。人間学を中心として今なお、国民的教育者として私たちの進むべき道を示されています。安岡正篤先生の本を読まれると開眼するものがあります。
◆陽明学者の安岡正篤先生が唱えた「思考の三原則」
真実を知る思考の力
1.目先にとらわれないで、長い目で観察する。
2.一面にとらわれないで、多面的、全面的に考察する。
3.枝葉末節にとらわれないで、根本的に観察する。
「時間と多面と核心」思考ですね。
安岡正篤先生の著書
『王陽明研究』 明徳出版社 発行 1981.3
『東洋倫理概論』 関西師友会 発行 1988.7
『呻吟語を読む』 致知出版社 1989.6
『立命の書『陰騭録』を読む』 致知出版社 発行 1990.2
『経世琑言』 致知出版社 発行 1994.12
『人間学のすすめ』 福村出版㈱ 発行 1987.4
『王陽明 その人と思想』 致知出版社 発行 2016.5
『現代活学講和選集7 王陽明 知識偏重を拒絶した人生と学問』PHP研究所 発行 2006.1
『人生と陽明学』 PHP研究所 発行 2002.6
『新装版禅と陽明学・上ー人間学講和[新装版]人間学講和』 プレジデント社 発行 2016.10
『陽明学十講』 郷学研修所安岡正篤記念館 発行 2011.2
『王陽明と朱子』 郷学研修所安岡正篤記念館 発行 2014.4
『易と人生哲学』 致知出版社 発行 1998.9
『易学入門』 明徳出版社 発行 2022.12
『東洋思想の人物』 明徳出版社 発行 1991.11
『人生をひらく活学』 PHP研究所 発行 2003.10
『運命を創る(安岡正篤人間学講和)』 プレジデント社 発行 2015.3
『安岡正篤一日一言』 致知出版社 発行 2006.6
『活学 第一編』 致知出版社 発行 2023.3
『新装版 人物を創る (安岡正篤人間学講和「大学」「小学」)』
『 新装版 運命を開く(安岡正篤人間学講和)』 プレジデント社 発行 2015.3
『新装版 論語の活学ー人間学講和[新装版]人間学講和』 プレジデント社 発行 2015.5
『新装版 人生の大則(安岡正篤人間学講和)』 プレジデント社 発行 2016.6
『新装版 知命と立命(安岡正篤人間学講和)』 プレジデント社 発行 2015.8
『先哲講座』 致知出版社 発行 1988.2
『現代活学講和選集1 十八史略(上)激動に生きる強さの活学』 PHP研究所 発行 2009.3
『照心講座』 致知出版社 発行 2011.9
『人生手帖』 致知出版社 発行 2018.3
など、多数出版されています。

仁寿山
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文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。
写真は南側のお旅山山頂から見た仁寿山です。写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。頂上の六一亭があったところにはテレビ塔が建っています。六一亭は六つの藩がここから一つに見えることから名付けられたと云われています。
