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  姫路藩・河合寸翁と仁寿山校  

​仁寿山

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 文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。

 

 写真は南側のお旅山山頂から見た仁寿山です。写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。頂上の六一亭があったところにはテレビ塔が建っています。六一亭は六つの藩がここから一つに見えることから名付けられたと云われています。

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仁寿山と西池:右側に水楼とその奥に仁寿山校がありました。

仁寿山校

仁寿山校

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​仁寿山校略絵図

​仁寿山校跡地 竹林と土塀

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​仁寿山校井戸跡

    河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで名高い。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けた。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしたが、寸翁の死後廃校となった。天保十三年(1842)寄宿舎は姫路城下にあった藩校・好古堂に移され、医学寮だけは明治維新までこの地に残された。図は、元藩士の下田重復が明治四三年に描いたもので、盛時のようすを示している。現在、井戸と土塀の一部だけが残っている。寸翁の墓は仁寿山々麓の河合墓所の中にある。    

 平成二十四年一月 姫路市教育委員会、姫路市文化財保護協会現地掲示板より記載(同じく左上写真掲載)

仁壽山校址碑

仁壽山校址碑

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  仁壽山校址碑      伯爵 酒井忠正撰

舊姫路藩大夫河合寸翁余が千世忠道忠実二君ノ信任ヲ受ケ藩政釐革ノ衝ニ膺リ功績甚ダ多シ君之ヲ褒め

シ文政二年禄を増シ且ツ特ニ城ノ東南阿保阪元奥山北原兼田諸村ノ山林ヲ賜ヒテ燕息ノ處ト為サシム仁

壽山是ナリ寸翁以為ヘラク教化ヲ興し人材ヲ得ルハ今日ノ急務トス此ヲ以テ恩ニ報ユベキナリト乃チ私

財ヲ捐テ山南ノ一區ヲトシテ校舎ヲ創設ス書院塾舎書庫教場教師館醫學寮等ノ諸堂宇六一亭六角堂白鹿

洞規碑等アリ又朱子祠堂公館等ノ地ヲ豫定セリ其學制ハ大學頭林述齋ノ指導ヲ仰ギ近藤抑齊菅野松塢ヲ

舉ゲテ督學トナシ汎ク藩内外ノ子弟ヲ収容ス猪飼敬所頼山陽摩島松南等ノ碩儒来リ講ジ育英ノ業日ニ進

ム仁壽山校ノ名四方ニ聞エテ藩學好古堂ト相駢馳セリ天保十二年寸翁逝キテ後校運漸ク衰ヘ藏書什器ノ

類率子好古堂ニ移管セラレ山校遂に廢ス今ヤ當年ノ校舎泉石皆湮滅シテ復覩ル可カラズ獨市川ノ清流瑩

然トシテ山麓ヲ繞リ白鷺ノ城樓分明ニ雲際ニ聳ユルアルノミ今茲舊藩士民ノ有志相諜リ寸翁頌徳ノ碑ヲ

姫山公園ニ建テ又此碑ヲ山校ノ遺址ニ置テ以テ其勲業ヲ不朽ニ傳フト云フ                                      

                                    大正十一年六月二十四日建

仁寿山校の教育内容

​仁寿山校の教育内容

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■「賢人は国家の宝」

 ・河合寸翁の人材を愛する心が学校の設立を実現させた。

 ・藩の補助を受けたが私学校であった。姫路藩は藩立として好古堂が存在した。

 ・文政五年開校(1822)。 初め仁寿山書院と称した。

■校風と授業について

 ・校舎内に朱子の白鹿洞書院掲示碑を建立した。(学問の心構え。1825)

  頼山陽は文政八年(1825)の秋に、この朱子の「白鹿洞掲示」を学生に講義を行った。

 ・実学を重んじ、「治国平定天下経世済民の人材を養成する」※1ことを主目的とした。

 ・学問に志がある子弟、藩選抜の子弟、及び他藩の志がある者を受け入れた。

 ・「経書を講説」※2  

   (五経:易経、詩経、書経、春秋、礼記/四書:大学、中庸、論語、孟子など)

 ・「学科は漢学、国学、習字、習礼などで、素読、復読、討論、質問辨義などを行った。」

   ※3 習礼(しゅうらい:重要な儀式の予行) 復読(繰り返して読む)質問辨義(質問し正しく弁ずる)

 ・太極図・論性説を発行。(1832)

 ・仁寿山に招聘された人々

   頼山陽(4回):学問のあり方など様々な問題を討論させた。

   堤鴻佐、猪飼敬所、摩島松南、斎藤拙堂、大国隆正、松林飯山など

 ・河合寸翁没(七十五才  1841)

 ・「1842年 仁寿山を廃止し、寄宿舎を好古堂に移す。医学寮は残る。」※4

  ◆頼山陽の詩

   『発播仁寿山校諸生』『姫路懐古』『重陽在仁寿山校』など

  ◆頼山陽、藩主酒井忠実に『日本外史』を献上    

                   

  ※参考書籍

  『姫路城史(下巻)』 橋本政次 著 ㈱名著出版 1973年4月

  ※1、※2、※3は『姫路城史(下巻)』より引用

  『近世の松原村』松原郷土史シリーズ3  大西文雄 著  1998年3月

   ※4は『近世の松原村』より引用。

  『頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育』 島田清 著 兵庫教育研修所 1969年3月

​姫路神社内 河合寸翁像

白鹿洞掲示碑

仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示碑

学問の要諦が書かれており、頼山陽が仁寿山校で教授しました

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仁寿山校白鹿洞書院掲示碑.jpg
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出典 『河合寸翁大夫年譜

「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」

仁寿山校跡の白鹿洞掲示碑の礎石

   この碑に書かれているのは、学問を志す者が、肝に銘じておかなければいけない「学問の重要点」が書かれています。儒教は「修己治人」の学問であり、その学問をどのように学んだらよいか、わかりやすく示されています。朱子は規則を好まず、自己を律することを尊重しており掲示としたようです。碑の主要なところを抜粋しました。

「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり※2。      

博く学び、審かに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う※3。       

言は忠信であること、行いは篤敬であること※4。忿りを懲らし慾を窒ぐこと※5、善に遷って過ちを改めること※6。

​右は身を修むるの要なり。

その義を正してその利を謀らず。その道を明らかにしてその功を計らないこと※7。

右が事柄に対処する要である。

自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならい。※8。実行してうまくゆかぬときは、わが身に振り返って反省すること※9。

​右が人と応対する要である。」

※1 朱子が制定した学生心得。朱子は外から規制する学規を嫌い、掲示としました。

朱子が白鹿洞掲示碑にピックアップした出典書物

※2 『孟子』、※3『中庸』、※4『論語』、※5『易経』損卦、※6『易経』益卦、※7『漢書』、※8『論語』、※9『孟子』

出典:三浦国雄 著『人類の知的遺産 19 朱子』講談社 1979年

         抜粋引用:325頁~327頁 ニ 白鹿洞書院掲示     

​​​朱子は四書五経や漢書から重要な点をピックアップして説いています。

朱子は当時、多くの人がそうであった功利主義の人が目指す科挙(国の試験制度)を嫌いました。「民と共にある」人間をつくる学問を目指しました。河合寸翁や仁寿山校で講義を行った頼山陽もそのような志の人間を養成したかったと思います。

 

河合寸翁も財政改革を成し遂げたあと、半官半民の学校による人づくりを目指しました。

※岡山県にある興譲館高等学校はこの「白鹿洞書院掲示」が建学の精神となっています。

 YouTubeに興譲館高等学校の動画が載っております。

頼山陽

​仁寿山校に招聘され、真の学問を教授した

頼山陽

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​竹原の頼山陽像

頼山陽(安永九年~天保三年/1780~1832)は大阪生まれの「安芸の人」で江戸時代後期の儒学者、漢詩人、歴史家、画家、書家の人と言われ、旅や酒も女性も好きな自由人でした。あの有名な『日本外史』を執筆した方です。『日本外史』は史記を参考に、源平から徳川までの武家の栄枯盛衰の歴史を綴ったもので、天皇と武家の関係を執筆し、幕末尊王思想に影響を与えた書物です。

 頼山陽は仁寿山校を訪れ学問のあり方や方法、教育や人生の意義・目的など色々な問題を討論させとた言われています。頼山陽先生のこともこれから書いていきたいと思っています。昔の学者や文化人を通して生き方や日本を知っていけたらと思っています。

※昔、頼山陽先生の旅に広島に行っていました。頼山陽先生のふるさと、小京都といわれる竹原に先生の像があります。

 頼山陽先生は、銘酒・剣菱を飲みながら幕府の恐れに屈することなく、酒標の霊気と酒魂によって『日本外史』を執筆されたそうです。昔買った箱入り「黒松剣菱」の中に冊子が入っており、その中に頼山陽先生が剣菱を飲みながら執筆されている絵が描かれています。また、赤穂浪士の討ち入り出陣の際にも剣菱が飲まれたそうです。その絵も描かれています。

※剣菱は不動明王の剣と鍔が商標となっています。古来武家の慶祝の祝酒に用い

  られていたそうです。私も好きな一つのお酒です。

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​黒松剣菱の箱に入っている

冊子の中の頼山陽の絵

頼山陽愛飲の酒003.jpg

頼山陽愛飲の酒

​広島の頼山陽史跡資料館にて展示​

太極図

仁寿山校で『太極図』を出版

太極図.jpg

天保三年(1832年)九月に出版

出典:兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況島田清 著 

   天保三年九月(1832年)、仁寿山校で『太極図』を出版。

『太極図』は宋学における宇宙と人間の根本原理を説くもので、周敦頤がつくり出し、朱子が重要な新解釈を行いました。宋学の入門書『近思録』(1176年刊行)の「道体」に太極図説の説明があります。近思録とは「論語」の「切に問いて近く思う、仁その中にあり」から取ったもので「身近なことから考えてゆく」という意味です。朱子は宇宙論・形而上学を補い、宋学(新儒教)のリーダー的役目をにないました。

廬山世界文化遺産

廬山世界文化遺産 白鹿洞書院(江西省・九江市)

「アジアあっちこっち!その日暮らし!」さんのブログに白鹿洞書院の紹介記事が掲載されています。紹介致します。 ⇒ 「アジアあっちこっち!その日暮らし!」

※「アジアあっちこっち!その日暮らし!」さんの許可を得て掲載しています。

◆残念ながらプロバイダーの都合によりブログ中止の為、閲覧できませんので、下記の様に掲載しました。(2020.1.6)

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長谷川君父子瘞髪之碑

 仁寿山校の白鹿洞掲示碑は長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に生まれ変わっていました

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 地蔵院にある長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑

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亀山雲平先生の漢詩

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 長谷川君父子瘞髪之碑とお地蔵様

※写真は地蔵院様の許可を得て撮影し、掲載しています。無断転載は禁止します。

 その碑は今、姫路市京町の地蔵院の境内にお地蔵様と南天の木に守られて「長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑」となって、建立されています。この碑は、亀山雲平先生の教え子であった長谷川君父子の瘞髪鎮魂の碑です。

 ※瘞髪(遺髪を埋める)

 幕末・明治初頭は遊学と留学が盛んに行われました。父である長谷川鍛冶馬は藩の命により武術習得の為に福岡に遊学に、時を経ての娘婿の長谷川雉郎は明治政府の命により米国ニューヨーク州トロイに留学に行きました。しかし、長谷川君父子は遊学先、留学先で志半ば病に倒れて客死しました。亀山雲平先生はこの教え子の不幸を嘆かれ、親戚の依頼を受けてこの鎮魂の漢文をつくり父子の遺髪を埋めて碑を建立されました。藩と国の為に志を高くもって他国で亡くなった二人。遺髪を合葬すれば二人の魂はひとつのところに帰ってきて出会うだろうと、この碑がつくられたそうです。

詳しいことはホームページ「日本漢文の世界・長谷川君父子瘞髪之碑」の記事をお読みください。

  ホームページ ➡     日本漢文の世界

​  ※掲載とリンクは「日本漢文の世界」の管理人様の許可を頂いています。

 私はこのホームページを見て、この歴史的事実を知りました。いろいろと調べていきますと明治期初頭の留学生は痛々しいほどに国のため、プレッシャーや病と闘いながら苦学をされていたということを知りました。本当に胸が詰まる思いがします。

 

 今、長谷川雉郎の墓はニュージャージー州ニューブランズウィックの日本人留学生の墓地に眠っています。その写真をブログに載せておられる方がいます。見てください。ニューブランズウィック市は山形県鶴岡市と福井市と姉妹都市となっています。

ホームページ「Rutgars 日下部太郎の墓を訪ねてより」は(管理人不明、現在インターネットプロバイ

 ダーのサービス終了の為、閲覧できなくなっています。)

 

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※ホームページより抜粋

ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。
一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。
ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと

入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳
小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳
松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳

長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳
日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳

   仁寿山校の朱子の白鹿洞掲示之碑と長谷川君父子瘞髪之碑は碑文が変わっていますが、学問の要諦、つまり、「修己治人」の教えを学び実践した志の魂の碑として変わっていないのではないでしょうか。私はそのように思っています。仁寿山校の学生もそのような志を持った人が多く集まりました。

 碑の上部には前の碑と変わらず、双龍が守っています。その双龍の上部中央に宝珠がありますが、現在の碑となって、宝珠が魂に描かれているように思えるのですが、そのように見えるのは私だけでしょうか。 (※宝珠:災難を除き、濁水を清め、望みを叶えると言われています)

 碑の前に南天の木が植えられています。今、赤い南天の実をつけています。南天は発音から「難転」つまり禍を転じると云われ、幸せをもたらす木として昔からも用いられてきました。英語では「heavenly bamboo」と言います。実は咳の鎮静の薬とされてきました。南天の赤い実が長谷川君父子の魂を守っているようにも見えました。ご冥福をお祈り致します。

 

仁寿山校と楠木正成

仁寿山校と楠木正成

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湊川公園「楠木正成像」

仁寿山校の図書庫には多くの貴重な書物があったそうです。

 

河合屏山の所蔵品であった『紙本墨書 法華経奥書』もそのひとつです。楠木正成の信念、思想が明確にわかる資料であり、河合寸翁の養子で姫路藩の勤王運動のリーダーであった河合屏山の『心』も読み取ることができる貴重な資料です。

 この資料は、今どこにあると思いますか? 探しました! 湊川神社の宝物殿にありました。

 

 『紙本墨書 法華経奥書』 南北朝時代 建武二年(1335年)八月二十五日 楠木正成が奉献した法華経の奥書である。かつて楠木正成は天下平定を行うことができたならば、社前で毎日法華経を転読するとの誓いをたてていたが、その祈願が成熟したため、社前に経文と由来を書き記して奉献したものです。 

河合寸翁大夫頌徳碑

河合寸翁大夫頌徳碑『葆光』

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   姫路神社の前に河合寸翁大夫頌徳碑『葆光』があります。

この碑は河合寸翁頌徳碑で大正十一年六月二十三日(碑の日付は二十四日建)に除幕式が盛大に行われたそうです。

 この碑は伯爵酒井忠正が撰者で題字は久邇宮邦彦王殿下が書かれたものです。

この『葆光』は荘子の斉物論に書かれている言葉で、光を包み隠し、表面に表さないこと、つまり、知恵や才能を内に深くたくわえて、おもてにあらわさないことです。河合寸翁の偉大にして測り難い徳業を褒めたたえる語として題額となっています。厳しい環境と孤独な幼少期と青年期を学問に励み、壮年期は筆頭家老として藩政改革に取り組み、晩年は、人材は国の宝として仁寿山校を建立して人材育成に捧げた河合寸翁は姫路の賢人(公の賢人)であり大恩人です。将来、姫路に河合寸翁記念館ができればと願っています。

※    頌徳碑:功徳を褒めたたえる碑

※    斉物論:万物斉同(万物は全て斉(等)しい)。荘子の哲学の根本。

※    『葆光』は兵庫県立姫路工業高等学校のOB会の名・「葆光会」となっています。

   『葆光』の意は前述していますが、逆説すれば身につけた教養はおのずから光を発するという意

   味です。兵庫県立工業高等学校・葆光会資料より

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社倉・固寧倉

河合寸翁と播磨の社倉・固寧倉(こねそう)

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​白浜町乙(中村)の固寧倉

   播磨の固寧倉について掘り下げて調べました。簡単ですが固寧倉について要約いたします。

固寧倉は凶作や水害対策で考え出された米麦の備荒貯穀(びこうちょうこく)倉庫で、文化6年(1809年)に大庄屋衣笠弥惣左衛門氏長などが倉庫の設立を河合寸翁に建議し、藩主酒井忠が創設したものです。固寧倉は姫路藩独自の呼び方をした社倉です。

   社倉は、古く中国の隋の義倉から始まり、凶作や端境期対策で設けられた穀物倉庫です。社倉の「社」は今で言う、市町村の倉庫で、平時においては低金利で農民に貸付け、凶作や災害時に備える穀物用備蓄倉庫です。この考えは朱子の社倉の考えから由来しているようです。社倉は今で言う自治の考えであり、信用組合に近い考え方のようです。日本の産業組合を考える上で大事な内容と思います。江戸時代には朱子学が導入されましたが、山崎闇齋先生が研究された朱子社倉法があります。尚、余談ですが、河合寸翁先生は山崎闇斎学派の儒教学者であり、武士だったそうです。固寧倉は『書経』より「民惟邦本、本固邦寧」民は惟れ邦の本 本固ければ 邦寧し(たみはこれくにのもと もとかたければ くにやすし)

から名付けられました。河合寸翁先生の行財政改革の三本柱の一つ「民生安定」の思想が実行された社倉です。1846年には集落ごとに288ヶ所設置され、現在は野里、妻鹿、東山、白浜町乙(中村)、刀出(かたなで)の5棟が現存しています。写真は白浜町乙(中村)。

観涛処

高砂市加茂山にある「観涛処」

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◇観涛処.jpg

   加茂山の上部の巨岩に観涛処と大きな文字が刻まれています。ここから播磨灘が眺望できます。観涛処は「波が見える眺望の地」といわれています。「観涛処」の文字は書道家で儒者であった永根文峯(ながねぶんぽう)19歳の時の自筆の文字です。姫路藩家老、河合翁寸が刻ませました。巨岩に刻まれた文字は迫力があり、雄渾(ゆうこん)です。

彼は32歳で他界しています。また、永根文峯の子供の亦太郎号鶴年も年少に亡くなっています。「観涛処」の左に、永根文峯の父、姫路藩を代表する書道家、永根伍石(ながねごせき・諱は鉉)の碑文が記されています。碑文の最後に

 『噫今独り老ゆ。姑く勉めて哀痛、余石に題す。』

と記されています。残された72歳の父の心はいかに無念であり、痛く哀しかったでしょうか。秀才であり国の宝である逸材を若くしてなくすことは、河合寸翁も胸が痛かったでしょう。

永根伍石は仁寿山校朱夫子白鹿洞掲示之碑を書かれた方です。写真は高砂市竜山中腹の観涛処です。左後方に石の宝殿採掘場が見えます。

高砂の申義堂

河合寸翁と高砂の申義堂

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   申義堂(しんぎどう)は江戸時代の学問所(郷学)で、文化年(1804〜1818)に高砂の北本町に河合寸翁の命で設立されました。費用は姫路藩が半分、高砂町大年寄の岸本吉兵衞が敷地と建物を提供した庶民の教育施設です。

申義堂の「申義」は『孟子』の「義を申す」から引用されています。義を伸ばし涵養するという意味です。

教授は菅野松塢、三浦松石一、美濃部秀芳等が担当し、教材は「四書五経」「小学」「近思録」「春秋左氏伝」が使われていました。

申義堂玄関の棟瓦は中国故事の「鯉に乗った琴高仙人[きんこうせんにん])です。日光東照宮の陽明門にも琴高仙人が刻まれています。

この申義堂は(株)カネカから寄付を受けて移築復元されたもので、平成23年に高砂市指定文化財に指定されました。

※参考資料

 高砂市指定文化財 申義堂のパンフレット(高砂市教育委員会 生涯学習課 文化財係)

 申義堂内の説明パネル

 申義堂の門前の説明掲示

 高砂市の申義堂のホームページ

※写真は申義堂・管理人様の了解を得て撮影をしております。無断転載は禁止します。

​九所御霊天神社

河合寸翁の産業政策の姫路木綿。商人達が寄進した大鳥居

​九所御霊天神社

姫路市大善町に鎮座する神屋の天神さん・九所御霊天神社(くしょごりようてんじんしゃ)があります。

小学校の頃、この天神さんをよく通ったものでした。小さい頃の良き想い出として残っています。

残念ながら故人となられましたが、人間国宝と姫路名誉市民の落語家の桂米朝さんは昭和40年~46年の間、実家である、この神屋の天神さんの宮司を一時期されていました。また、この神社には「御国産江戸積仲間」と刻まれた大鳥居があります。これは、江戸末期、河合寸翁は藩の財政を立て直すため、主事業の特産姫路木綿を推し進めていましたが、その商人達が寄進した大鳥居(元治元年・1864)です。江戸で新規販路拡大を担った商人達がいなかったら姫路藩の復興はなかったでしょう。先人の頑張りに頭が下がります。

 

『明治の姫路百景』駟路の会事務所発行の冊子に「神屋の天神の森」の写真が掲載されています。

 

 

◆九所御霊天神社(くしょごりようてんじんしゃ)  姫路天神  神屋天神

◇御祭神

 主祭神 少彦名命

 合大祀 大山袛命  経津主命  大物主命  猿田彦命  誉田別命  大鷦鷯命  菅原道真公  柿本人麿公

 

本殿に九柱の神様がお祀りされています。

 

◇縁起略紀

 創立年代は不詳なるも、天平十三年(741)聖武天皇勅願による播磨国分寺の大伽藍(だいがらん)の建立時には、既に天人衣を着た天神を祀る御霊社があり、この付近一帯の総鎮守の霊神であったと古書により伝えられている。貞治三年(1364)の領主赤松貞範が、この霊神と伝えられる御霊社と「播磨国別所九社」の松本天神社とを合祀し、併せて『市別府』の讃辞を呈す。 爾来、市別府 九所御霊天神社と奉られる。   (九所御霊天神社の説明資料より抜粋) 

※写真は九所御霊天神社様の許可を得て撮影し、掲載しています。無断転載は禁止します。

河合惣兵衛

勤王志士・河合惣兵衛の『尽忠報国』の碑

​© 2011 歴史の街・播磨

      河合惣兵衛(文化3年~元治元年)は仁寿山校で学び、文武に秀でて、姫路藩好古堂の肝煎役となり、勘定奉行、宋門奉行、物頭、持筒頭などの役に任じられた武士であり、姫路藩勤王の志士の中心的人物で愛国運動に尽くした武士です。徳川幕府の側近である酒井家・姫路藩から多くの勤王の志士を出していることに注目する必要があります。

    姫路藩の幕末勤王思想は河合寸翁を源流とし、仁寿山校で育まれたと考えます。河合寸翁は尊王の志を明確にした山崎闇斎学派の武士であり、彼は日本外史を書いた頼山陽を仁寿山校に4回も招聘したことからもうかがえます。

    河合惣兵衛は元治元年十二月二十六日自刃を命じられ自刃、四十九歳。後に贈従四位。脱藩を行った養子の河合伝十郎は同日斬首、二十四歳。後に贈従五位。その他の姫路の勤王の志士たちは捕らえられ重刑を科せられました。これらを「甲子の獄」と呼ばれています。河合惣兵衛は長州藩の勤王の志士と交流があり、彼らから同志と言われていた人物であることは松下村塾の門下生、司法大臣の山田顕義の墓参の事実からも明らかです。尚、河合惣兵衛は河合寸翁の一族です。

姫路藩勤王志士終焉之地

姫路藩勤王志士終焉之地

​© 2011 歴史の街・播磨

「姫路藩勤王志士終焉之地」の石碑は姫路駅から西北に歩いて10分ぐらいのところにあります。姫路市魚町の大蔵前公園にひっそりと佇んでいます。

 

勤王の八志士の名前が石碑の裏に刻まれています。

河合寸翁が設立した仁寿山校で学んだ河合惣兵衛、その養子河合伝十郎の名前が見えます。

姫路藩の幕末勤王運動は崎門学派の河合寸翁を祖として始まり、養子屏山が勤王派の中心となり、河合寸翁の一族の河合惣兵衛が活動リーダーとなりました。

この地で処刑された

勤王の八人の志士の名前を記載いたします。

贈正四位 河合惣兵衛定元  四十九歳

贈正五位 萩原乕六政興   二十二歳

贈正五位 江坂元之助行厚  二十七歳

贈正五位 市川豊次久明   二十四歳

贈正五位 伊舟城源一郎政美 三十五歳

贈正五位 河合伝十郎宗貞  二十四歳

贈正五位 松下鐡馬綱光   三十歳

贈正五位 江坂栄次郎行正  二十三歳

昔、この場所は姫路藩の獄舎と処刑場がありました。元治元年(1864年)12月26日に甲子の獄と呼ばれた事件があり、佐幕派に勤王派は弾圧されこの8名が斬首の刑と自刃の命により処刑されました。延べ76人が処罰されました。その後、姫路城開場後、反対に明治3年まで佐幕派は150人、勤王派により処罰されたと聞いています。

今日の日本があるのは彼らの熱血あふれる勇気と行動によりあると思います。今の日本を見ると考えさせられるものがあります。

※河合伝十郎は脱藩し、神戸海軍総練所に入り坂本龍馬と共に海軍を学んだ人物です。

姫路藩勤王志士終焉之地石碑までの地図を記載いたします。是非、参拝してください。

尚、近くに船場本徳治があり、幕末に活躍した勤王の志士の石碑があります。

玉椿の名前の由来

玉椿の名前の由来

​© 2011 歴史の街・播磨

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​仁寿山校跡の竹林に咲く椿

     姫路には、河合寸翁の産業奨励によりつくられた藩自慢の姫路銘菓「玉椿」があります。

 玉椿 は椿の美称で、長寿の 木として祝賀の歌に多く使われる語であり、また茶席などの和室の花として鑑賞され、桜とともにきわめて宗教的な花と言われています。姫路銘菓「玉椿」は、姫山に咲く可憐な乙女椿を着想して、茶人でもある河合寸翁が名づけたとも云われています。

 春には、仁寿山校跡地には、造園業者が植えた多くの乙女椿が咲き乱れています。椿は世界の園芸種が6,000種あるといわれ、花は散っても誇らしげに上を向く椿の特性を多くの人が愛したと言われています。

はぜの木

姫路藩財政改革の「はぜの木

​© 2011 歴史の街・播磨

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 昨年、生前、お世話になった従兄の葬儀に行く道すがら、真っ赤に紅葉した木に出合い、その鮮やかさに見とれていました。ふと傍らに立札があり、見てみると河合寸翁の命で植樹した「はぜの木」でした。以前から「河合寸翁のはぜの木」を見たいと思っていました。教職だった亡き従兄が教えてくれたのかもしれません。 姫路市野里にて、11月9日(立冬の山椿開)に撮影。

「江戸時代末期、河合寸翁は姫路藩の財政改革の一環として、「はぜ」を市川の土手に植え、蝋をとりロウソクを専売にしようとしていた。その名残りの木である。秋には紅葉する。」増井中学校夢プラン実行委員会の立札の説明より掲載

河合寸翁と短歌

河合寸翁と短歌

​© 2011 歴史の街・播磨

​姫路神社内 河合寸翁像

河合寸翁が遅桜の歌を詠んでいます。

四月三日(現在の五月十日頃)

遅櫻を

武士のえりはらひせしほまれかな

はるにをくれて匂ふさくらは                              

姫路市郷土唱歌

姫路市郷土唱歌

 

 

 

昭和天皇の即位のご大典の記念につくられた、姫路市郷土唱歌です。姫路の歴史をよく表していると思います。 

 

 

一、天下に三つの名城と 其の名も高き白鷺城

  旭の光さし添へば 雄姿颯爽(ゆうしさっそう)世を葢(おお)ふ

  偉人豊臣太閤の 偉業燦(さん)たり千代迄も

 

二、南に続く一帯の 松翠年(しょうすいとし)に色を増し

  名も三左衛門の長濠(ちょうごう)に 湛(たた)ふる水の面澄(たもす)みて

  名君池田輝政の 壮圖悠(そうとゆう)たり長(とこし)へに

 

三、仁壽山黌跡訪(と)えば 廃墟空しく月に輝(て)り

  昔を語る梅ヶ岡 薫(かほり)の花の香(か)も高く

  河合太夫を仰ぐなり 晒(さら)しの布の名と共に

 

四、王政維新の業成るや 天一日(てんいちじつ)の大義ぞと

  版籍奉還(はんせきほうかん)首唱せし 功(いさを)かぐはし酒井侯

  剣かたばみの紋と共 語り伝えへん後の世に

 

五、國(くに)の鎮(しずめ)めの十師団 武勲赫々(ぶくんかくかく)名も高く

  寸断血染(ちぎれちぞめ)の連隊旗 勇武の名残(なごり)を留めつつ

  響く喇叭(らっぱ)の音色にも 勇往進取の気象あり

 

六、北には廣峯書寫(ひろみねしょしゃ)の山 梅に其の名の白國(しらくに)や

  杖曳(つえひ)く人の増井山 南の内海(うみ)は波静か

  治まる御代のためしにて 御祓市川水清(みそぎいちかわみずきよ)し

 

七、総社十二所本徳治(そうしゃじゅうにしょほんとくじ) 薬師の山に建つ碑文

  於菊(おきく)の井戸や姥ヶ石(うばかいし) 残る床(ゆか)しの伝説を

  語るに似たり公園の 姫山松は聲立(こえた)てて

 

八、世界に名を得し姫路革 名も高砂やかちん染め

  昔ながらの色に栄え 玉川晒名(たまがわさらしな)も著(いちじる)く

  明珍火箸(みょうちんひばし)も古くより 称へられたる名産ぞ

 

九、錦糸毛糸の紡績や 織物マッチ工場の

  煙の雲にうちふるふ 汽笛の音の繁(しげ)きにも

  進む市政のしのばれて 我等が意気は揚るなり

 

一〇、地は中國の要路にて 山舒水緩土肥(さんじょすいかんつちこ)えて

   五穀ゆたかに人適(ひとかな)ひ 面積方里人四萬(めんせきほうりひとよまん)

   栄えある歴史に彩られ 御代に栄ゆる我が姫路

 

一一、さはあれ市民(まちびと)心して 自治共同の旗影に

   大勅(おおみことのり)かしこみて 殖産興業励みつつ

   尚武(しょうぶ)の道もゆるみなく 一つにつくせ國のため

 

一二、地理の利便に相応じ 歴史の跡に鑑みて

   既に備はる錦上に いで花添へん諸共に

   郷土を愛する赤心(こころ)もて 更に飾らん市の歴史

 

眞野義彦先生校閲、米野鹿之助先生校閲、姫路市郷土唱歌委員会作 昭和天皇即位のご大典の記念につくられた。

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