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黒田官兵衛孝高(如水)
黒田官兵衛高孝(如水)
黒田官兵衛孝高、法名・如水円清(じょすいえんせい)。仁寿山校の西南に甲山(国府山城)があります。孝高(よしたか)は戦国時代、戦略に優れ、竹中半兵衛とともに羽柴秀吉の播磨平定に尽くし、秀吉の天下統一に大きく寄与しまた。彼の座右の銘は「我、人に媚びず、富貴を望まず」です。また、彼の法名、如水円清は老子の言葉から由来している。これらの言葉は、彼のポリシーを如実に語っている。天文15年(1546年)姫路で生まれ、慶長9(1604年)59歳で京都・伏見で死去。

仁寿山西側から見た甲山(右側・標高98m)
功山城(こうざんじょう)
功山城は、市川左岸の甲山(こうざん)にあり、別称を妻鹿城・国府山城(こうざんじょう)・袴垂城(はかまたれじょう)ともいわれています。
初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。その後、姫路城内て生まれた黒田官兵衛孝高の父織隆(もとたか)は、天正元年(1573年)に姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正八年(1580年)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としました。これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城てある姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩五六万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。天正一三年(1585年一)織隆が没した後は、廃城となったようです。なお、織隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。
平成10年4月吉日 姫路南ライオンズクラブの功山城説明掲示板(旧)より記載
国府山城(功山城とも)は城郭の観点から見て砦のような小規模な城だが大変優れた城であった。
先ず第一は大変堅固な要砦をなしているということ。市川は現在のように南に流れ、別の流れは現在の浜国道の南沿いに流れ、今は埋め立て地となっている妻鹿港に流れていて、天然の堀となっていた。また南の一部には松原山があり、東には御旅山、妻鹿山が連なっている。北は峻嶮な切岸をなし、従って妻鹿村全体が大規模な城郭となっていた。
第二は、瀬戸内海を一望のもとに眺めることができ、見晴らしの大変よい城である。名城の条件を満たしている。
第三は、市川は当時現在の京口川とつながっており、姫路城近くまで船で行くことができた。軍の移動も物資の運搬にも大変便利よく、真北に位置する姫路城の枝城としては申し分なき城であった。
軍師官兵衛も一時期この城を居城としており、築城の名手黒田官兵衛はこの城から始まったといっても過言ではない。
平成10年4月吉日 姫路南ライオンズクラブの功山城説明掲示板(新)より記載

荒神社/山宝荒神

南側から見た夕方の甲山

妻鹿城址の碑

目薬の木

甲山から見た姫路市街

甲山の山上北東にある磐座