歴史の街・播磨
© 2011 歴史の街・播磨
頼山陽
姫路懐古・頼山陽
今年の桜は風雨に負けず綺麗に咲き続けました。
姫路城内に頼山陽の『姫路懐古』の七律の漢詩が展示されています。姫路城について頼山陽の鋭い歴史観と洞察力で詠まれています。
姫路懐古 頼山陽
五畳城楼挿晩霞 五畳の城楼、晩霞(ばんか)を挿しはさみ。
瓦紋時見刻桐花 瓦紋(がもん)時に見る、桐花を刻するを。
兗州曽啓阿瞞業 兗州(えんしゅう)曽(か)って啓(ひら)く、阿瞞(あまん)の業。
淮鎮堪興匡胤家 淮鎮(わいちん)興すに堪(た)へたり、匡胤(きょういん)の家。
甸服昔時随臂指 甸服昔時(でんぷくせきじ)、臂指(ひし)に随ひ。
勲藩今日扼喉牙 勲藩今日、扼牙(こうが)を扼(やく)す。
猶思経略山陰道 猶思ふ山陰道を経略せしを。
北走因州路作叉 北、因州に走りて、路叉をなす。
仁寿山校に招聘され、真の学問を教授した
頼山陽
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竹原の頼山陽像
頼山陽(安永九年~天保三年/1780~1832)は大阪生まれの「安芸の人」で江戸時代後期の儒学者、漢詩人、歴史家、画家、書家の人と言われ、旅や酒も女性も好きな自由人でした。あの有名な『日本外史』を執筆した方です。『日本外史』は史記を参考に、源平から徳川までの武家の栄枯盛衰の歴史を綴ったもので、天皇と武家の関係を執筆し、幕末尊王思想に影響を与えた書物です。
頼山陽は仁寿山校を訪れ学問のあり方や方法、教育や人生の意義・目的など色々な問題を討論させとた言われています。頼山陽先生のこともこれから書いていきたいと思っています。昔の学者や文化人を通して生き方や日本を知っていけたらと思っています。
※昔、頼山陽先生の旅に広島に行っていました。頼山陽先生のふるさと、小京都といわれる竹原に先生の像があります。
頼山陽先生は、銘酒・剣菱を飲みながら幕府の恐れに屈することなく、酒標の霊気と酒魂によって『日本外史』を執筆されたそうです。昔買った箱入り「黒松剣菱」の中に冊子が入っており、その中に頼山陽先生が剣菱を飲みながら執筆されている絵が描かれています。また、赤穂浪士の討ち入り出陣の際にも剣菱が飲まれたそうです。その絵も描かれています。
※剣菱は不動明王の剣と鍔が商標となっています。古来武家の慶祝の祝酒に用い
られていたそうです。私も好きな一つのお酒です。
黒松剣菱の箱に入っている
冊子の中の頼山陽の絵
頼山陽愛飲の酒
広島の頼山陽史跡資料館にて展示
非理法権天
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『非理法権天』は楠正成の軍旗です。
悪いことは道理に負かされる、
道理は法律に負かされる、
法律は権力に負かされる、
権力は天・自然の摂理に負かされる
天道に沿って生きたものは最後に勝利を得る
この五語は楠木正成の軍旗に記されていたもので、彼の座右の銘です。彼の哲学が明確に表れている軍旗です。湊川神社の境内に軍旗を見ることができます。参拝のときに見てください。
千早赤坂に楠正成の奉建塔が建立されています。
高さは43尺(43歳に自害:13m)。
『非理法権天』の下には頼山陽の『大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞』が埋め込まれています。
この軍旗は栞として湊川神社の宝物殿で販売されています。プレゼントやお土産にお薦めします。
頼山陽と曽根天満宮
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高砂市曽根町に菅原公手植之霊松で有名な曽根天満宮があります。延喜元年(901年)菅原道真公が冤罪により九州大宰府に左遷される途中、曽根の日笠山山上の小松を「我に罪み無くば栄よ」と祈念し、植えられました。これが菅原公手植之霊松です。
頼山陽は「藝國 後學 頼襄」と記して『靈松詩』を奉納しました。幹回りが6mの立派な霊松曽根の松は残念ながら秀吉の播州征伐の兵火の影響で衰弱し枯死しました。二代の松は壮観で大正十三年に天然記念物に指定されましたが、松喰い虫に襲われ昭和24年に枯れてしまいました。手植松の幹は霊松殿に保存されています。現在、五代目の松が育成されています。(初代の松は寛政10年・1798年に枯れたそうです)
靈松殿
古靈松・手植えの松
熊本藩の儒学者、秋山玉山の排律(律詩の対句で主に五言)を頼山陽が浄書したものが先に書かれています。ここでは頼山陽の古詩を掲載させていただきます。
ご協力: 曽根天満宮 様
頼山陽ネットワーク 見延典子 様
訳注 進藤多万 様
頼山陽が崎門学の儒教学者であり、政治学者であることを踏まえてこの訳詩を読んでみますと、頼山陽の気持ちが分かります。描写も素晴らしいです。
※崎門学の國體思想は王政復古です。
『靈松詩』から『易経』の二つの卦を思い浮かべました。
風沢中孚(兌下巽上)誠心・誠意の道の卦と地火明夷(離下坤上)不遇対処の道の卦です。
「孚の真心と不遇」、悲しく辛い思いと、悔しさが込み上げてきます。
曽根天満宮境内
五代の松
曽根八幡宮は三月初旬から三月中旬頃が見ごろで、たくさんの梅(40種類200本)の花が咲きます。三月の第一土曜日と日曜日に梅祭が開催されます。観梅時期は過ぎましたが、来年、梅の花を観ながら菅原公と頼山陽を偲んではどうでしょうか。お薦め致します。山陽電鉄、曽根駅から歩いて約5分の所にあります。
※『曽根天満宮 菅公手植之霊松』より要約
「六騎塚」 頼山陽、南朝老臣・児島範長(のりなが)を称え漢詩を詠む
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六騎塚
南北朝時代の延元元年(1336年)児島高徳の父範長主従六人の自害を弔って建立したと伝えられている。亀趺(きふ)とよばれる亀形の台上に碑が建てられており、正面に「備後守児島君墓」裏に「嘉永三木庚戌年五月十九日佐和田清左衛門範一建之」と刻されている。
『太平記』巻十六によれば、延元元年足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。
平成十一年九月 姫路市教育委員会 説明掲示板より
『日本外史』『日本楽譜』で有名な頼山陽は、河合寸翁に招聘され、文政10年(1827年)仁寿山校での講義の帰途、阿弥陀駅跡で南朝老臣・児島範長(のりなが)を称え漢詩を詠んだ。「~誰か大筆を将て 此の老を旌し、豐碑 高く照らさん 山陽道」
南朝忠臣・児島高徳は[太平記の桜の幹に十字の詩『天勾践を空しゅうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず。』]で有名です。
頼山陽と小赤壁
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小赤壁の名前の由来
姫路の海側に『小赤壁』と呼ばれる地があります。
小赤壁(しょうせきへき)の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。
姫路藩家老、河合寸翁が創立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、この海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宋代の詩人・蘇軾(そしょく)の長江の詩、「赤壁賦」が詠まれ、この時、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。木庭山の断崖絶壁である小赤壁は高さ約50m、長さ約800mあります。
◆HATENA BLOG 「播磨の山々」で小赤壁のドローン空撮をされている方がおられます。
全天球パノラマでパソコン上やスマホ上で映像を動かすことができます。
https://dfm92431.hatenablog.jp/entry/2018/01/28/110630
赤松円心の翻意(決意を変える)
頼山陽「日本楽府・飜覆手(はんぷくしゅ)」
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頼山陽の「日本楽府」の中に赤松円心の決意を変える気持ちが書かれています。頼山陽は江戸後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人、画家で多彩な才能をもつ人ですが、忘れてはいけないのは、彼は武士だったということです。ですから赤松円心の気持ちをよくわかってこの漢詩をつくったと思われます。後醍醐天皇の新政権は恩賞を与えたり、翻して取り上げたり、簡単に手をひっくり返すようようでは信じられないといった気持だったと思います。武士の気持ちがわからない天皇であり、論功行賞で失敗した新政権でした。
頼山陽の日本外史に後醍醐天皇の占筮の内容が載っています。楠氏編に伯耆の行在所(あんざいしょ)で京に戻るか占筮を行い、「師の蒙に之くに遇う」と記載されています。つまり、本卦(現代)は地水師、爻は六爻、之卦(未来)は山水蒙です。「地水師」は「戦い」、六爻は論功行賞を正しく行うことが大事な終結という意味です。後醍醐天皇はこの論功行賞を正しく行わなかった為に、太平の世には成らず、混迷の世にしてしまいました。「山水蒙」は「思慮不足して失敗」である。
『易経』は変化の書とも言われ、占いと自然摂理、及び処世哲学を一体として説いた人類の英知の書です。
『易経』七 地水師
<集団と闘争>
◎師は貞。丈人なれば吉、咎めなし。
・戦を行う時は、正しい大義名分が必要であり、目的を明確にしておく
ことが重要である。
・師は軍隊の意。戦いは軽々しくやるものではないから、貞正を失わぬ
ことが大事である。
・これを統率する指揮官は、優れた能力をもっている人であれば吉、咎
めはない。
上六 論功行賞の道をいう。功績を正当に評価すること。小人は用うるなか
れ(国家を乱す)。
六五 軍に出陣を命ずる君主の地位であるが、従順で中庸の徳をそなえてい
るから無理の戦いはしない。軍隊の指揮官は九二のようなりっぱな人
物でなければならない。
六四 撤退も高等戦術。陣を堅くして不動の態勢を要する。
六三 陰柔不中正、このような人物が軍隊を統率すれば必ず破れ、犠牲者を
多く出す。
九二 外國を悦服させ、王の信寵をうけるようなれば吉である。優れた人柄
を持った指揮官。
初六 軍隊を動員するには軍律がなければならぬ。これがなければ、いかに
正義の戦でも凶。
『易経』と頼山陽
考察 『易経』が頼山陽に影響を与えたものとは
頼山陽は12歳(以下全て数え年)で『易経』を読み終えて、「立志論」を書きました。そして、14歳で「述懐(立志詩)」を作りました。その漢詩が、学界の重鎮で昌平黌教授、柴野(しばの)栗山(りつざん)の目に留まり、高く評価され、父、春水を通して、詩より歴史を学ぶようにと、『通(つ)鑑(がん)綱目(こうもく)』(朱熹の撰と云われる史書)を薦められました。そして、彼はこのアドバイスを受け、『通鑑綱目』から勉強を始めるのでした。この学びが彼の見識と史観を高める事となり、彼のデビューのきっかけをつくる出来事となりました。
私は、この頼山陽の話を知り、12歳で、このようなことができるのは天才であると思いました。彼の決意としての立志論を書かせ、立志詩を作らせたのは『易経』が大きくかかわっているのではないかと考えています。その『易経』の教えは何だったのか、私なり考察をしたいと思います。
先ず、頼山陽が幼少期に読んだ書物を、順を追って確認したいと思います。7歳の時には四書の大学の素読を始めています。大学は、君主や宰相として天下を導く者が治める学門で、修身、斉家、治国、平天下の政治哲学と学問を結び付けた大人の学です。次に、10歳の時、読んだのが四書の論語です。論語は孔子の言行録で、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方を説いた書物です。そして、12歳の4月に経書の筆頭である『易経』を修了しています。
『易経』は占いと人倫道徳を包含し、自然摂理と自然哲学を教えている経書です。『易経』は変化の書であり、「生」の学問です。現代人は『易経』と言えば、占いと思う人が多く、また、インターネット検索をすると占いの内容で満ち溢れています。いつの間に、日本人は占いばかりに興味を持つようになってしまったのか、本当に残念でしかたありません。『易経』は簡単に言いますと、64卦、つまり64の自然から学んだ物語と君子への教えで構成されています。また、『易経』はストーリー付けされた順序(序卦伝)で配置されています。1番目の乾(けん)為天(いてん)(天)と2番目の坤(こん)為地(いち)(地)が、交流して3番目の水雷屯(すいらいちゅん)(万物発生)となり、~中略、63番目は水火(すいか)既済(きせい)(完成)、そして、最後の64番目は火(か)水(すい)未済(びせい)(未完成)となり、誕生から完成、完成から未完成となり、新たなるスタートとなります。そして、永久に循環していきます。
そして、易には三義(さんぎ)と六義(りくぎ)が有ります。
◆易の三(さん)義(ぎ)と六(りく)義(ぎ) ※三義は①~③、六義は①~⑥
①易簡(いかん)(分かり易い) 自然摂理はシンプルです。
②変易(へんえき)(変わる)例)1年の季節は刻々と変わります。
③不易(ふえき)(不変) 例)次の年も変わらぬ四季は来ます。
④神秘的です。
⑤創造・発展(天地万物の創造・進化)します。
⑥治めます。(自然現象を観て、人間の道を治めます。)
頼山陽は、我々人間は刻々と変化する時間の中で生きている、人間にとって学を治めるには時間がない、この世で大成するには、まず、志を立てて早く踏み出したい、そして、公に尽くし、国の為に尽くしたいと自覚し、決心したのではないかと考えます。
そして、『易経』は乾為天(けんいてん)と、坤為地(こんいち)を理解できれば、大半を理解できたことになるとも云われています。その一番目の乾為天は「龍による帝王学の物語」となっています。乾為天は天であり積極果敢に活動する大元気で、万物を発生させ、育成させる卦です。次に、彖辞(たんじ)と爻辞(こうじ)の内容を見ていきたいと思います。
彖辞(たんじ) 乾は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し。
(彖辞(たんじ) 卦(か)の意義・性質を説明し、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)を断定する言葉)
乾は、大いに事が運び、うまく叶う。正しい事を固く守ること。
爻辞(こうじ)
(爻の意義・性質を説明し、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)を断定する言葉)
※爻の表示は算木と同じようにしています。
用九、羣龍(ぐんりゅう)を見るに首(かしら)无(な)し。吉(きつ)なり。
六つの陽爻の龍は首を雲で隠して現わさない。従順・謙遜であれば吉である。
※用九:六十四卦全ての九爻(陽爻)の用い方が示されている。
上九(じょうきゅう)、亢(こう)龍(りゅう)なり。悔(く)いあり。
昇りつめた龍。頂点を極めた時。自ら後退する。
九五(きゅうご)、 飛龍(ひりゅう)、天にあり。大人(たいじん)を見るに利(よろ)し。
天空を飛ぶ龍。運気盛大で能力を発揮できる時。志を達成したが驕り高ぶら
ず、衰退に対処すること。リーダーの人材育成を行う時。
九四(きゅうし)、 或(ある)いは躍(おど)らんとして淵(ふち)に在(あ)り。咎无(とがな)し。
龍が天に飛翔しようとする時であるがその時では無い。慎重に進めば禍は無い。
九三(きゅうさん)、 君子(くんし)、終日(しゅうじつ)乾乾(けんけん)し、夕(ゆうべ)まで惕若(てきじ
ゃく)たり、厲(あや)うけれども咎(とが)无(な)し。
猛烈に活動する龍。一生懸命に努力研鑽する時。果敢に活動し、内省すること。
九二(きゅうじ)、 見(けん)龍(りゅう)、田(でん)に在(あ)り。大人(たいじん)を見るに利(よろ)し。
地上に姿を見せた龍。大人(九五・指導者)に出会い、学ぶこと。基礎をつくる
時期。
初九(しょきゅう)、 潜(せん)龍(りゅう)なり、用(もち)うること勿(なか)れ。
地に潜む龍。志を立てる時期。時期尚早、力量不足、実力涵養の時。
※初九と九二が「地」、九三と九四が「人」、九五と上九が「天」の位置づけとなります。
更に簡略化して纏めますと、この様になります。乾為天の龍の帝王の物語を下から見ていくと、六つある爻の一番下が、頼山陽の十二歳の時と見ます。つまり、龍は田の下に潜んでおり、志を立てて実力をつける時です。そして、五爻(下から五番目)の飛龍の大成に至るまで、何を行わなければならないかが書いてあります。頼山陽はこの乾為天の教えをよく理解したと考えます。
龍は君主・皇帝のシンボルで、龍を君主に見立てて君主の歩む道を説いています。そして、龍は剛健で強いシンボルです。しかし、龍独りでは、力は発揮できません。そうです、龍(陽)は雨雲(陰)を呼び、恵みの雨を降らせ、万物を育成させます。龍(陽)と雨雲(陰)は一体なのです。これを君主に例えると、剛健すぎると行き過ぎて傲慢になります。よって、陰の徳である、柔順謙虚であることが大事になってきます。ですので、用九があり、64卦全ての陽爻の使い方が記してあるのです。
※仁寿山校の白鹿洞書院掲示は明治維新後、競売にかけられ、亀山雲平先生が詠まれた長谷川君父子瘞(えい)髪(はつ)之碑に変わっていますが、双龍はそのまま残っています。その龍にも雲が描かれています。写真からデジタル処理をして再現しました。ご覧ください。
龍(陽)+雲(陰)=恵みの雨
碑の写真からデジタル処理をしています。はっきりと雲が彫られています。
出典 『河合寸翁大夫年譜
「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」
頼山陽は河合寸翁の娘婿の河合屏山に、経書は大義大局を掴む事と仁寿山校でアドバイスをしており、幼少期から物事の正当性の判断とマクロ的に要点を掴むことに長けていたと考えます。
以上のことから、頼山陽は、大学の天下国家を治める君主・宰相の学問から入り、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方の論語を学びました。そして、君子が学ぶ究極の学問、つまり、自然哲学、変化の書、及び「生」の学問を学ぶことによって、気付いたのではないでしょうか。それは、人間とは何か、学問とは何の為にするのかを自覚し、決心し、志を立てることが重要であることに気付いたのではないでしょうか。私はこのように考察しています。
◆立志論(抄)
男児、学ばざれば則ちやむ。学ばば則ち、まさに群を越ゆべし。
今日の天下は、なお古昔(こせき)の天下のごときなり。今日の民は、なお古昔の民のごときなり。
天下と民と、古(いにしえ)の今に異ならず。而して、これを治(おさ)むる所以の、今の古に及ばざるものは何ぞや。
国、勢いを異にするか。人、情を異にするか。志ある人のなければなり。
庸俗(ようぞく)の人は 情勢に溺れて、而して自ら知らず。上下(しょうか)となく一なり。これ深く議するに足らず。
独り吾が党(儒学の徒)、その古帝王(堯・舜など聖天子)の天下の民を治むるの術を伝うるものにあらざるか。・・・・・
吾れ東海千載(せんざい)の下(もと)に生まれたりと雖も、生まれて幸に男児たり。
また儒生たり。いずくんぞ奮発して志を立て、以て国恩に答え、以て父母の名を顕わさざるべけんや。
・・・・・・
古の賢聖・豪傑の成すところ、吾れもまた、ちかかるべきのみ。たれか我が言の狂を言わん。
吾れ生まれて十有二年なり、父母の教(おしえ)を以て、古道を聞くを得ること六年なり。
春秋に富めりと雖も、その成るやすでに近し。いやしくも自ら奮(ふる)わずして、因循(いんじゅん)に日を消す。
すなわち、かの章を尋ね、句を摘(つ)むの徒に伍して止まらんか、恥(は)じざるべけんや。
ここに於て、書して以て自ら力(つと)む。またこれを申(の)べて曰く、ああ汝、これを選び、同じく天下に立ち、同じく此の民の為にす。 なんじ庸俗に群(ぐん)せんか、そもそも古の賢聖・豪傑に群せんか。
―もと漢文。
◆癸丑歳(きちゆうのとし) 偶作 [述懐(立志詩)]
十有三春秋
逝者已如レ水
天地無二始終一
人生有二生死一
安得下類二故人一
千載列中青史上
十有三の春秋
逝くものはすでに水のごとし
天地始終なく
人生生死あり
いずくんぞ古人に類して
千載青史に列するを得ん
【大意】
わが十三歳の年月は、水の流れのように、早くも過ぎ去ってしまった。天地には始めも終わりもないが、人生には限りがある。だから、生きているうちに、昔のえらい人たちに負けないような仕事をして、長く歴史に名を残したいものである。
◆汝、草木と同じく朽(く)ちんと欲するか
頼山陽は、この言葉を高らかに唱えて、わが身を励ましたそうです。