歴史の街・播磨
© 2011 歴史の街・播磨
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赤松円心
赤松次郎左衛門尉月潭則村(法名:円心)
赤松氏の菩提寺、法雲寺(禅宗)にある円心堂(赤穂郡上郡町)
松原八幡神社と赤松円心
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白浜町に松原八幡神社があります。この神社は播磨の守護職、赤松円心が敬った神社です。その後、赤松氏は嘉吉の変で敗退し、赤松氏に助力した松原八幡神社は山名氏に社殿を兵火で焼かれ、焼失しました。その後、子孫の赤松政則は将軍足利義政に功績があり、応仁二年に再興しました。そして、播磨、備前、美作を奪還後、赤松政則は5年後の文明三年に松原八幡神社(八幡宮)の修復再建を行いました。その竣工祭に米二百俵が寄進され、氏子達は喜んで米俵を御旅山に担ぎ上げたのが、灘のけんか祭りの屋台となったと言い伝えられています。
(写真は朝の松原八幡神社)
灘のけんか祭り
灘のけんか祭りは毎年10月15日に開催されます。
灘七ヵ村の屋台七台が勢ぞろいし、熱気渦巻く壮大な祭りが繰り広げられます。宵宮は14日、本宮は15日に行われます。
(灘のけんか祭りの写真はS.Kさん提供)
白旗城
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上郡町・白旗城全景(標高440m、約550mの尾根に幅約300mの)中世の山城
太平記で活躍した播磨守護職・赤松円心(源氏)のふるさとに新田義貞を釘付けにした白旗城があります。
この山城は建武3年(1336年)に円心が築きました。赤松円心は新田義貞軍6万の大軍を2千の兵(内名射手800人)で迎え撃ち50日間耐えました。この間、足利尊氏は九州に逃げ延び、体制を整えて反撃に出て室町幕府を築いたのです。北条幕府倒幕の先兵となり、室町幕府建立の立役者の半分以上は赤松円心であり、彼が起たなかったら、足利尊氏も決起しなかったと云われている。
松原神社を敬っていた赤松円心
彼の山城「白旗城」
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赤松円心のふるさと、上郡町に行ってきました。兵庫県赤穂郡上郡町赤松に難攻不落と言われた白旗城(山城)があります。新田義貞を近づけることができなかったこの山城を動画でお見せしたいと思います。この映像を見ていただくと、標高440mの急峻な山で、要害堅固に造られた山城であることが判っていただけると思います。国定史跡の白旗城跡となっています。皆さんも是非登って、中世の山城を体験してください。
赤松円心の翻意(決意を変える)
頼山陽「日本楽府・飜覆手(はんぷくしゅ)」
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頼山陽の「日本楽府」の中に赤松円心の決意を変える気持ちが書かれています。頼山陽は江戸後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人、画家で多彩な才能をもつ人ですが、忘れてはいけないのは、彼は武士だったということです。ですから赤松円心の気持ちをよくわかってこの漢詩をつくったと思われます。後醍醐天皇の新政権は恩賞を与えたり、翻して取り上げたり、簡単に手をひっくり返すようようでは信じられないといった気持だったと思います。武士の気持ちがわからない天皇であり、論功行賞で失敗した新政権でした。
頼山陽の日本外史に後醍醐天皇の占筮の内容が載っています。楠氏編に伯耆の行在所(あんざいしょ)で京に戻るか占筮を行い、「師の蒙に之くに遇う」と記載されています。つまり、本卦(現代)は地水師、爻は六爻、之卦(未来)は山水蒙です。「地水師」は「戦い」、六爻は論功行賞を正しく行うことが大事な終結という意味です。後醍醐天皇はこの論功行賞を正しく行わなかった為に、太平の世には成らず、混迷の世にしてしまいました。「山水蒙」は「思慮不足して失敗」である。
『易経』は変化の書とも言われ、占いと自然摂理、及び処世哲学を一体として説いた人類の英知の書です。
『易経』七 地水師
<集団と闘争>
◎師は貞。丈人なれば吉、咎めなし。
・戦を行う時は、正しい大義名分が必要であり、目的を明確にしておく
ことが重要である。
・師は軍隊の意。戦いは軽々しくやるものではないから、貞正を失わぬ
ことが大事である。
・これを統率する指揮官は、優れた能力をもっている人であれば吉、咎
めはない。
上六 論功行賞の道をいう。功績を正当に評価すること。小人は用うるなか
れ(国家を乱す)。
六五 軍に出陣を命ずる君主の地位であるが、従順で中庸の徳をそなえてい
るから無理の戦いはしない。軍隊の指揮官は九二のようなりっぱな人
物でなければならない。
六四 撤退も高等戦術。陣を堅くして不動の態勢を要する。
六三 陰柔不中正、このような人物が軍隊を統率すれば必ず破れ、犠牲者を
多く出す。
九二 外國を悦服させ、王の信寵をうけるようなれば吉である。優れた人柄
を持った指揮官。
初六 軍隊を動員するには軍律がなければならぬ。これがなければ、いかに
正義の戦でも凶。
京都建仁寺・久昌院に眠る赤松円心
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赤松円心(則村)の墓は、京都最古の禅寺(臨済宗)である建仁寺の久昌院にあります。墓はお寺さんの都合で非公開になっています。赤松円心の墓の隣には雪村友梅(せっそんゆうばい)の墓があります。雪村友梅は赤松円心と縁が深く、兵庫県上郡町の赤松村にある赤松円心の菩提寺法雲寺の開山として招かれ、その後、建仁寺の住職となった禅僧です。彼は中国の元朝で学び、誤解を受けて死刑になるところを助かり西蜀に流されました。苦難を乗り越えて24年間中国に滞在し、その後帰国しました。五山文学(漢文学)の中枢となる禅僧でした。昔は武士と禅僧は繋がりがあり、赤松円心は雪村友梅を通じて人脈を広げたと思われます。