歴史の街・播磨
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山崎闇斎
山崎闇斎と河合寸翁
京都の下御霊神社
姫路藩家老・河合寸翁は山崎闇斎学派(崎門学)の儒学者であり武士でした。山崎闇斎は名を嘉、字を敬義(もりよし)、通称を嘉右衛門、号は垂加を使い京都生まれの儒学者で、弟子は6千人を超えていたと云われています。父と祖父は宍粟郡山崎村(現在の宍粟市山崎町)の出身です。賢い少年であった闇斎は活動的でよく学び、25歳の時に仏教から儒教に転向を行い所信を果敢に実行した儒学者です。山崎闇斎は儒教以外に、天皇家、天皇家の神である神道に興味を持ち調査・研究し、その中から垂加神道を開いた学者でもあります。彼の國體思想は皇政復古(王政復古)であり、彼の思想が明治維新を導いたとも云われています。京都市中京区寺町通丸太町にある下御霊神社の境内末社として猿田彦社相殿・垂加社(すいかしゃ)に贈正四位の山崎闇斎先生の神霊を祭祀してあります。毎年、下御霊神社では2月22日に山崎闇斎先生に関する文献を展示し、見学できるようにされています。
※下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)
平安初期の貞観五年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神(うぶすながみ)として崇敬され、享保年間(1716~1736)に霊元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。本殿は寛政三年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祭っている。神社前の掲示板・京都市より引用
※産土神:鎮守の神
山崎闇斎と河合寸翁
宍粟市の闇斎神社と山崎闇斎
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江戸末期、姫路藩の73万両の借財を返済する為に、河合寸翁(1767~1841)は藩政改革と財政改革を実施していきます。施政方針を明確にして藩一丸となって問題解決に取り組むように要請し、日常生活の節約と倹約を図り、新しい殖産興業に全力に取り組みました。それによって借財は返済することができ、その貢献により文政四年(1821)藩主より阿保山の麓に別荘地を賜りました。そして、藩主の許可を得て人材養成の仁寿山校を設立しました。河合寸翁は崎門学派の儒学者であり姫路藩の家老です。河合寸翁は山崎闇斎(1618~1682)の教えを行政の場で発揮した治国平定天下経世済民の実践者です。共に朱子の信奉者です。その崎門学の開祖、山崎闇斎は兵庫県宍粟市(しそうし)山崎町鹿沢にある闇斎神社に御霊が祭祀されています。昭和15年の皇紀2600年を記念して京都の闇斎神社より御霊を勧請(かんじょう・御霊を他の場所に移し祀る事)し神社として祀っています。
山崎闇斎の父と祖父はこの地、宍粟郡山崎村の出身です。闇斎は山崎姓をこの地から由来として名乗ったと云われています。山崎闇斎は儒教では崎門学、神道では垂加神道を開いた学者で6千人を超える弟子がいたと云われています。播磨の門流としては、山崎闇斎→三宅尚斎→玉田黙翁→合田麗沢→河合寸翁といった系譜になります。
山崎闇斎は聡明で幕政の名宰相である会津藩主の保科正之に礼遇を受けていました。寛文五年(1661)に保科正之に招聘され彼が没するまで8年間、「君臣水魚の交わり」の様な交流がありました。
山崎歴史郷土館(宍粟市立図書館2階)に山崎闇斎坐像が展示されています。河合寸翁や明治維新を導いた偉大な儒学者、神道家を感じとることができます。私は仁寿山校の原点は朱子にあり、共に朱子の信奉者の山崎闇斎と河合寸翁の人材教育理念よって実現したと、この坐像を見て強く思いました。非常に貴重な山崎闇斎坐像です。この像は評論家の嘉治隆一氏が東京本郷の古本屋で発見し、知人の小説家の吉川英治氏を通して昭和35年に寄贈されたものだそうです。江戸時代中期の作品で兵庫県指定文化財となっています。見学は事前に予約が必要です。
※山崎闇斎坐像の写真は宍粟市の許可を得て撮影し、掲載しています。無断転載は禁止します。