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   私の住んでいる姫路市に仁寿山と呼ばれる山があります。その山の麓に昔、江戸時代末期に仁寿山校と呼ばれる姫路藩家老・河合寸翁が設立した人材養成の学校がありました。その仁寿山校跡の敷地に碑の礎石が残っています。私はこの礎石との出会いによって 江戸時代、中世、そして中国の周・漢・宋・明時代の思想や教育等を探究することになりました。河合寸翁と仁寿山校から播磨の歴史、日本の歴史、そして中国古代の歴史などを探究し、人間学を学んでいきたいと考えています。

              

   安岡正篤先生は終戦後の混乱期、日本人の心を取り戻すべく「郷学」を唱えられました。郷土の賢人を顕彰し、郷土の学問・業績を郷土の人に回復させようと提唱されました。その学問、その思想から「自己を知り、自己をつくる」そして自分の環境を及ぼしていくことが使命であると、そして、「郷学を過去の遺物とせず、新しい時代を生きる活力の源泉としなければならない」と唱えられました。現代もその様な時代ではないでしょうか。            

  • 執筆者の写真© 2011 歴史の街・播磨

更新日:1月24日

 姫路藩士・長谷川雉郎については、当該ホームページでも紹介しています。仁寿山校の白鹿洞掲示碑は長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に生まれ変わっている事を記事に書きました。

 さる3月5日ニュージャージー州のラトガース大学150周年記念会議「ラトガース大学、日本との出会い」と題するオンライン会議が開催されました。米国の週刊NY生活に「海を渡った若獅子たち」としてこの記事が掲載されました。オランダ修正協会を母体とする学校を前身として1866年に設立された州立大学です。慶応3年から明治30年までに日本人300人がこの大学で学びました。因みに姫路藩士・長谷川雉郎はニューヨーク州トロイで学びました。墓は日下部太郎を含め六人の留学生と共にニュージャージー州ニューブランズウィック、ウィローグローブの日本人留学生墓地に眠っています。幕末から明治にかけて海外に留学することは命がけの学びであったことが分かります。彼は残念ながら喀血で亡くなるのですが、彼のホームステイ先のトロイの中学校教師・ウィルソン氏は四つの行いを讃えています。一つは潔さ、二つは学問好き、三つは慎み、四つは真心であると言っています。

 海を渡り、米国に学び近代日本を支えた命がけの日本人留学生の記事を、是非読んでいただきたいと思います。


※記事では長谷川鍛郎となっていますが、雉郎が正しい名です。因みに父の名は鍛冶馬です。


長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑

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  • 執筆者の写真© 2011 歴史の街・播磨

更新日:2023年10月22日


桂米朝さんのお墓参り

姫路に二つの国宝があります。一つは姫路城、もう一つは落語家で人間国宝の桂米朝(三代目)さんです。姫路は桂米朝さんの故郷です。先日、姫路市名古山霊苑の姫路市名誉市民墓にある桂米朝さんのお墓参りに行ってきました。桂米朝さんの『米』の文字のお墓です。奥様と一緒に眠られています。『米』のお墓の前の「八」の部分はベンチになっているとことです。桂米団治さんは「遊び心を持ってお参りにきてほしい」と話されています。皆さんも是非お墓参りに行ってください。

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