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亀山雲平
播磨聖人・亀山雲平先生

亀山雲平先生
学に勉め徳を養い 職を奉じて我が身を忘れる
謙虚に人に接し 真面目に励んで己を修めた
その行いは厳格で その言葉は穏やかであった
亀山雲平先生の墓碑に刻まれている一節⑵
亀山雲平先生は、姫路藩の家臣であり、勉学に優れた人物でした。幼少期から学問に励み、助教や教授として多くの若者に教育を施しました。また、藩内の対立を調停し、平和を守るために尽力するなど、強いリーダーシップと公正な判断力を持っていました。地元の神話に基づいて村名を命名するなど、地域の文化と歴史を尊重し、大切にする姿勢も見受けられます。彼の人柄は、知識と教育への情熱、公正さ、文化への敬意に満ちあふれていました。以下、亀山雲平先生の歴史を箇条書きに纏めました。
・亀山雲平先生は姫路藩主酒井公の家臣である亀山家7代目百之(ももゆき)の次男として1822年に姫路で出生。
・9歳の時に父百之が亡くなり、8歳の時に藩校の好古堂に入学。勉学優秀で18歳の時に助教となる。
・22歳の時に亀山氏長男剛毅(よしたけ)が病没し、亀山家家督を相続。
・江戸の昌平坂学問所に入学し、3年間在学後卒業。卒業後は江戸藩邸に出仕。
・33歳の時に姫路に戻り、好古堂教授となる。
・明治元年(1868年)幕府派の藩内過激派を制し、朝廷派の備前兵を説得して交戦を避ける。亀山雲平先生の活躍がなかったら、姫路城下は砲火を受けていた。
・明治3年(1870年)藩主忠邦の侍講となり、明治4年(1871年)長男・享に家督を譲る。
・松原八幡宮祠宮となり、塾「久敬舎(くぎょうしゃ)」を開設し地元の若者に学問を教える。明治17年(1884年)観海講堂を建設。
・白浜村の村名を「海原を白浜と化し一夜に数千本の松を生ずべし」という神話に基づいて命名。
・六カ村(松原村、中村、宇佐崎、東山村、八家村、木場村)は松原庄または松原郷と呼ばれていた。
・78歳で観海講堂で死去、景福寺に葬られる。播磨一円で教えを受けた弟子は五百から千人と言われ、播磨聖人と称された。⑴

松原八幡神社境内 亀山雲平先生顕彰碑。
※松原八幡神社は赤松円心公が崇敬した神社です。建武の中興は赤松円心(則村)の挙兵に因るところが大きく、また、足利幕府成立の功は半分以上が彼のお蔭と云っても過言ではありません。

松原八 幡神社正面全景


松原八幡神社境内 亀山雲平先生顕彰碑。
